品質工学の考え方

1.品質工学と経済

1.1 経済と生産性

 私達はより良く生きるために,さまざまな「モノ」と「サービス」を必要としている.それらの「モノ」と「サービス」はすべて「ヒト」の労働によって生産される.私達は私達が生産した「モノ」と「サービス」を分け合って生きている.「モノ」を生産するのは多くの場合「メーカー」であるが,簡単には生産されないものに土地がある.「サービス」の中には,例えば乳幼児を育てることや,寝たきり老人の看護など現段階の技術では,すべてを機械化させることが困難で,直接人間によるサービスを必要としているもの,すなわち生産性の上げにくいものも少なくない.通信,交通,金融のサービスなどは,設備の改善,自動化などでその生産性を上げることができる.
 
  いま,ある企業が労働生産性を上げて半分の人間で同じ量の生産をした場合を考えてみる.そのメーカーが半分の人間を社内で失業させたままいままでと同じ賃金を支払っていたのでは,その企業全体の生産性は上がらない.全体の人間で2倍の生産をしたとき,その製品が社会全体で品不足であれば生産性を2倍にしたことになるが,そうでなければ同じ品種を作っている他社の生産を落とすことになり,社会全体の生産性を上げたことにはならない.日本が製品を輪出し,その輸入国に失業者を生み出した場合も事情は同じである.製品の量が不足していないとき,量による生産性の増加はどこかに失業者を作ることになる.したがって,本当に生産性を上げたければ,生産性向上によって生み出された失業者に米国の経営者がしたように仕事を与えてやることが必要である.量による生産性増加には,同一労働で2倍の生産をするという局所的な合理化と同時に,生まれ出た失業者に新しい「モノ」,新しい「サービス」を生産させるという新製品の開発,生産をする仕事を提供することが必要である.新しい「モノ」,新しい「サービス」を考える組織が研究開発(R&D)部門であり,その人達のもっとも重要な任務である
 
 生産性の改善にはもう一つの方法がある.それは2倍の価値のある商品(高付加価値品)を同じ人間で作り出すことである.この場合,いままでの2倍の賃金を支払って,2倍の値段で売れば,その企業の生産性が2倍に上がったことになる.もし,すべての企業が同じことをしたとすれば,それに関わる人間の収入が,2倍になり,2倍の価格のものを買うことができ生活水準が2倍に上がることになる.一方,2倍の価値のあるものをいままでと同じ賃金で作り,いままでと同じ価格で売り出せば,消費者はその商品にたいしては2倍の生活水準を維持できることになる.すべての企業が生産性を上げ同じ人間の労働で2倍の価値のあるものを同じ価格で売り出せば,賃金がいままでと同じであっても生活水準は2倍に上がることになる.この場合は,全く別の商品の開発は必要ではないが,2倍の価値のある高付加価値品を同じ労働で生産するという技術開発が必要である
 
 したがって,賃金と生活水準とは関係がない.大切なことは,全体の生活水準を上げるために,生産性を上げて量を増加したときには,新たな商品を開発して新しい産業を作り失業者に仕事を与え,「モノ」や「サービス」の質を改善したときにはそれをいままで通りの値段で売ることである.事実,ディスプレイなどは,付加価値が上がっても値段はかえって下がっている.CPUなどもどんなに集積度が上がっても価格はほとんど前と同じ値に落ちついてしまっている.それらは質の向上した製品を同じコストで生産できるようにしたすぐれた技術開発である.
 
 生活水準は全部「モノ」と「サービス」の生産性とその分配で決まる.農業も小売業も多くのサービス業も量的生産性を上げるか,それができないときには質的生産性を上げることが日本全体の生活水準を上げるために重要である.生産性を上げるための研究開発(RD)に対する投資が重要である.それが経営者のもっとも重要な社会的使命である.品質工学の目的はR&Dそのものの生産性(の一部)を改善することを目的としている
 

1.2 品質と生産性

 生産性の改善には,量に対する生産性の改善と質に対する生産の改善があると述べた.その場合の質は,品質というよりはグレードである.ここではグレードではなく,いわゆる品質による生産性を考える.品質は車のエンジンの場合で言えば,燃費,騒音,振動,故障,公害など製品が出荷後社会に与える損失である.現在のエンジンは効率が30パーセント程度で,必要な馬力を出すために3倍以上の燃料を必要としている.いま,その効率を2倍にすれば,燃費が半分になるだけでなく,騒音,振動,公害なども半分またはそれ以下になると期待されるのである.70パーセントもの無駄な燃料によるエネルギー消費は振動,騒音,排気に変換され,公害をそれだけ増加していることは明らかである.もし,エンジンの効率が2倍になれば,それによる世界中の公害も半分になる.もちろん,産油国もガソリンを作っている企業も売上げが半分になる.それらの企業がガソリンの価格を2倍にし,同じ労働者数を維持したとしても,車の走行距離あたりの燃費は変わらないのだから,公害が減っただけ世界全体の生活水準の向上になる.したがって,技術者は生産現場の経済的に重要でない0.1パーセントの不良品を減らすよりも,エンジン効率などのもっと本質的な品質改善が望ましいことになる.0.1パーセントの不良をゼロにしても経済的価値は少ない.エンジンの燃料は,70パーセント以上がロスになり,膨大な損失を生んでおりそれを改善することが望ましいのである.
 
 石油やガソリン関係の企業は実際には価格を2倍にできず失業者を生み出すかも知れないが,世界中には車を欲しい人は多くいるのである.地域によっては,大人一人に一台を必要としている家庭が多く,車の価格も燃費も半分になれば実際には車の需要が増加し,思ったほどガソリンの消費も減らないことになる.品質工学では,入力としての燃料を信号とし,出力を機械エネルギーとした機能性の改善を重要視している.そのような本質的な機能性の改善があらゆる公害も減らしてくれると考えているからである.したがって,品質工学では,消費者が感じる品質特性,燃費,騒音,振動,公害,故障などの品質特性データを用いた改善研究は行わないのが原則である.本質的な機能を基本機能と言うことにする.英語のgeneric functionの方がもっと良い言葉だが,日本語にはうまい訳がない.品質工学では基本機能で考えて,消費者でおこる品質の改善を行うことをすすめている
 
 電灯の場合を考えてみよう.電灯を光らせるためのエネルギーの入力は電力で出力は光であるが,この効率を改善できる余地は大きい.光に対する電力消費は同じ効率で電灯の寿命を3倍にしたとする.電灯のメーカーは売上げが3分の1になる可能性が高い.したがって,寿命を延ばす研究は余りやりたがらないと言う人がいる.しかし,マーケットシェアの小さい企業にとってはそんなことはない.寿命を3倍にしたものを同じ価格で売り出せば,小さな企業の場合はマーケットシェアが増加し売上げが増加するが,大きなシェアを持っていた企業の場合は売上げが減ることになる.したがって,この場合の品質改善は失業者を作り出すことになる.品質の改善も量の改善も同じく失業者を作り出すが,品質の改善は公害を減らしたり,資源消費を減らしたりすることが多い.電灯の寿命が3倍になれば,電灯に用いられる材料の資源は3分の1になるからである.したがって,品質改善は量に対する生産性改善よりも生活水準で重要なことが多い.しかし,失業者を作り出すことには変わりはない.
 
 車の故障が減れば修理工場が少なくて済むし,タイヤの寿命が長くなれば,資源の消費も減る.もちろんタイヤ関係の企業の売上げがそれだけ減ることになり,失業した人には新しい仕事を与えるか労働時間を短くしてそれだけ賃金を減らすことになる.賃金を減らすことに賛成する人は少ないのだから,新しい仕事を提供することが生産性の増加のために必要である.そこで新しい商品の研究開発に資金を提供する経営者の重要性と共に,研究開発担当者の開発能力が重要となる.最初に述べたように,生活水準のためにまだ多くの「モノ」と「サービス」を要求している人達が少なくない.もっと質の高い家を欲しいと思っている人も多いし,環境に不満を持っている人も多い.ハンディキャップを待った人間や寝たきり老人の人達は,介護などのサービスを求めている.このサービスは無限に近い需要がある.それらの「モノ」や「サービス」を安く提供する技術の開発が望まれているのである.もちろん,ハンディキャップの人達や寝たきり老人を正常な活動ができるようにする治療法の開発も,その予防法と共に大きな課題である.何れも技術的にもっとも困難な問題でもっと多くのR&Dによる研究が必要とされる分野である.改善の見通しの少ないもっとも困難なこれらの問題には公共投資が必要であり国の研究機閑の充実が重要である.
 

1.3 品質と課税の重要性

 量が不足している途上国ではなく,量の十分な先進国では量の改善より品質改善の方が社会的に望ましいことが多いと述べた.品質改善の場合は,資源消費や公害を減らすことが多いからである.品質改善を促進するためには,公害の規制よりも課税方式が望ましいと思う.課税の中には,1次資源(natural resources)消費税も考えられるし,公害税も考えられる.資源消費税をかければリサイクルがすすむのである.資源の中には水も含まれている.
 
 また,「住」に対する生活水準を上げるためには,土地や建物に対する独占税を課すべきである.一般の人が自由に出入りできる百貸店とか遊園地,スタジアムなどに税金を課すことはできるだけ少なくし,個人の住宅,個人の所有地などに高く課税すべきである.それが土地の公共化のために役立ち,宅地の供給に役立つのである.独占は自由だがそれだけの対価を支払わせるべきである.
 生産性を上げられないような土地に対しては,独占的使用に対して税金を支払わせるべきである.公共用や,多くの人が自由に出入りできる土地に対しては,課税は不必要か安くすべきである.
 
 また公害に対しては,特別な場合を除いて規制するのではなく,課税を行うべきである.排気ガスに伴う公害などがそれにあたる.騒音に対しては課税より規制が望ましいかも知れない.これらに類するものに煙草やアルコール飲料があるが,既にかなりの課税が行われている.それらは関係者の健康に有害であるが禁止ではなく課税による対策で対処していることになる.
 
 個人個人の自由をできるだけ広げ個人の自由意志で行動できること,これが文化の水準の高さである.すなわち,本当の生産水準,本当の生産性とは一人一人の自由の総和が大きいことである.自由の中には自分の欲しい「モノ」や「サービス」,すなわち財が自由に手に入る豊かさを持つだけでなく,健康であり,しかも他人から自由を束縛されないことも含まれる.権力からの自由も大切であるが,一人一人の人間が他人の自由を束縛しないことである.すなわち,他人の自由をどうしても束縛するときは相手に納得してもらうだけでなく十分な対価を支払うことが大切である.私達がレストランで見も知らない人に,食事を作ってもらったり,食事のサービスをしてもらったりすることができるのはそれだけの対価を支払っているからである.
 
 うまく計測することはできないが,一人一人の人間の社会的価値はその人間がどれだけ他人に自由を与えることができたかで評価されるべきである.また権力機関である政府は個人個人の自由を守ってやるべきであり,個人の自由を縛るべきではない.強いて言えば,他人の自由を無断で犯す人を取り締まる任務がある